感覚としての言葉の理解

言葉は理解する為のキッカケになりますが、

同時にトラウマ、誤解などの弊害も作ります。

 

考えるな感じろと、ブルース・リーは言いました。

 

イスラエルのオステオパスの先生も、

そのような事を何回もおっしゃっていました。

 

頭の理解ではなく、

感覚としての言葉を感じることが重要なのかもしれません。

 

たとえば、自然の中で、木々はしゃべりませんが、

木々から感じることは多くあります。

 

波動の共鳴とも言えますが、言葉にならない言葉を

感じる習慣性は人間として、動物として、

本来、備わっているものだと思います。

(昔は具体的な言葉が無かったわけですから)

 

その感覚を鈍感とするのが、現代社会であり、

一般常識であり、モードやモデルといった、

 

簡単な型にはめる、はまる、いわば悪習慣なんだと考えます。

 

記号としてのただの言葉ではなく、

言霊としての生きた言葉を感じること、

そして、共鳴することが、本当の理解と思われます。

 

トラウマに対しての治療では、

言葉の理解以上に、感覚としての言葉の理解、

或いは、言葉は抜きに感じることが重要だと考えます。

 

本来は、在るのです。ただ忘れているのか、遠ざかっているのか、

 

または、何かに妨げられているのか、封じ込まれているのか・・・

 

どちらにしても、思い出してほしいと思います。

 

言葉には表せないという意味では、

湧き上がる活力や自然治癒力などの感覚に共通するようにも思います。

 

大人より子供の方が治療がしやすいのは、

そういう理由も含まれるのかもしれません。(言葉による弊害が少ない)

 

言葉はいらない・・・

考えるな感じろ!です。