割合

自分以外を、

つまり他人を理解し切れないという意味での

誤解を含めた、理解と誤解の幅であり、

良し悪しではなく、両方が共存し存在する限り、

 

完全などない以上、

 

その何割かが理解出来て、あとの残りの部分すべてを

理解出来ない、あるいは勘違いとするならば、

 

人間の関係性全般においても、そのお互いの割合の幅であり、

少なくとも、0か100とした極端差、あるいは落差をつける

または意図的に加速することは、客観性に欠けるという意味で

安易な考え方だと思う。

 

しかしながら、人々は頭の中で生きているのではなく、

行動という実践の繰り返しの中で、お互いの共存の模索なり、

駆け引きなりをしているわけで、

よって、考え方がいかに行動に反映して、

実践として行われるか。ということが、あたりまえですが重要となる。

 

つまり、他人の思考が分かるものと前提に置くこと自体、

何らかの矛盾を自ら生んでしまう思考であり、

その矛盾をなんとか修正しようと、

また、新たな矛盾を生んでいき繰り返してしまうことが、

いわば異常な神経回路を気が付かないまま、

それをそのまま利用して、実践に反映すれば実践の誤解ということでしょう。

 

肝心なことは、その前提を疑うということであり、

前提のフラット、ニューバランス化である。

 

何度でも繰り返す違和感があるならば、

ときには、他人ではなく自分を疑え、と言えば硬い言葉になるが、

見直すことが必要だと考える。

 

自分の今までの前提を崩すことは、ときに恐怖を孕むが、

今までの前提が、実践の有効性として、それほど利益を生まないと、

頭のどこかで、隅で、なんとなく感じているのであれば、

 

その本能とも、直感とも言える、自らを信じること、

 

確信とまではいかなくとも、少なくとも自身を疑う自分を信じる

という意味で自信を持ち、

 

そして勇気を出して、自分自身と向き合うことが必要だと思う。

 

疑うことと、信じることも、同じく共存し存在している

ということであり、良し悪しではなく、その割合の幅だと考える。